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 記憶は物とともにあるシリーズは、全8回(8カ国)に渡って連載しています
2013.10.15    今道周雄

記憶は物とともにある「第3回 リオ・デ・ジャネイロ編」
 ● リオ・デ・ジャネイロ(1980年)

 ブラジルでは1964年に軍がクーデターを起こし、以後1985年まで軍政が続いた。1970年代には「ブラジル奇跡の経済」と言われるほどの経済成長を遂げた。だがその代償としてインフレに見舞われ、反発した労働組合が1977年にサンパウロでストライキを行った。以後軍政府は抑圧的な政策を改め1985年には大統領の直接選挙を行うまでになるのであった。

 私がH氏と共に1980年にリオデジャネイロを訪れたのは、CSNの熱延プラントに収めた数式モデルにクレームがついたため、打ち合わせに出かけたのである。CSNの工場はボルタ・レドンダというリオからおよそ100Kmはなれた場所にあった。

 ニューヨーク経由でリオに着くと早速駐在員の事務所を尋ねた。駐在員はベテランの方であったが、当時は客先との間に様々な問題があり、我々の活動がそれらに影響しないかと大変心配していた。
客先との打ち合わせ方針を駐在員に説明し、納得してもらってからホテルへ帰ったのだが、その帰り道で出来事があった。

 二人で歩いていると数人の子供達が駆け寄ってきて、身振り手振りで靴を磨かせろというのだ。靴磨きが来たら財布に用心と教えられていたので、身構えて靴磨きを断った。子供達を後ろにして、数歩歩いたところで、「あれ」とH氏が頭に手をやった。「何かがペチャリと頭に付いた」という。手を見るとグリースがべったり付いていた。それを見ていた子供達は、一斉にクモの子を散らすがごとくに逃げ去った。断られた腹いせに、グリースを投げつけたのだ。

 ブラジルは容易なところではない、と翌日気を引き締めて打ち合わせに臨んだが、ブラジルの相手方は子供達ほど厄介な相手ではなく、スムースに打ち合わせが進んだ。だが、工場を見学させてもらい驚いた。ホットストリップミルの設備が古くさく日本の製鉄所のように管理が行き届いていないように思えた。これでは数式制御等と言っても、制御以前にミルそのものが思ったように動かないのではないかと思えた。やはりブラジルは一筋縄ではゆかない所と再認識した。

 リオに戻ってから、再び駐在員に報告をしに行ったところ、我々の顔をまじまじと見て「二人とも元気だな。だいたいクレームを処理に来た人たちは、憔悴しきってかえってくるのだが、あなた達はけろっとしている。」とけなされたのか褒められたのか分からないことを言われた。

 今やブラジルは経済的にも技術的にも当時とは全くくらべものにならない。世界第6位の経済規模を誇り、一人当たりGDPは12,789ドルになる。日本の一人当たりGDPは43,000ドルぐらいだからまだ、日本は優位にあるがこれからは分からない。

 豊かになったブラジルで今頃あの靴磨きの子ども達はどうしているのだろうか。今はもう40-50歳代の働き盛りのはずだ。運良く経済成長の浪に乗れたのだろうか。

 写真はリオで買った木彫りのフラミンゴである。対で買ったのだが、一羽は足が折れてしまい捨ててしまった。可哀想なことをした。リオデジャネイロの町の記憶はあまり残っていない。このフラミンゴのようにか細く、崩れ易い記憶であったようだ。
ブラジル国歌

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